富山大空襲から80年――空を見上げる記憶

2025年8月1日。今日は、昭和20年(1945年)8月1日に起きた「富山大空襲」からちょうど80年にあたります。

太平洋戦争末期、アメリカ軍は日本各地への無差別爆撃を強化しており、軍需拠点ではなかった富山市も標的とされました。未明の午前0時過ぎ、B-29爆撃機約170機によって大量の焼夷弾が投下され、市街地の99.5%が焼失、約2,300人の尊い命が奪われました。都市の焼失率としては全国でも最大級の被害でした。

私にとってこの出来事は、遠い歴史ではなく、家族の中に今も息づく記憶です。実際、富山市にあった私の母の実家もこの空襲で焼けてしまいました。

当時、母はまだ幼く、夏休みで親戚の家に泊まりに行っていました。夜空が赤く明るく染まり、大人たちが騒然とする中、母は「空がパッと明るくなって、まるで花火みたいだった」と話していたそうです。無邪気な子どもには、それが街を焼き尽くす火の手であることも分からず、ただ幻想的な光景のように映ったのかもしれません。

一方、母の母――私の祖母はその実家にいました。爆撃の中、祖母は必死で逃げ、奇跡的に助かりました。当時、母を預かっていた親せきの人たちは、祖母の安否を大変心配していたそうです。後に無事が確認され、再会を果たすことができましたが、家や家財はすべて失われました。

しかし、助かった祖母は、そのわずか4年後、若くして亡くなってしまいました。命をつないだ戦火の中から立ち上がった祖母が、戦後を長く生きられなかったことは、家族にとって深い悲しみとなって残りました。

母は、その祖母の命日が近づくたび、ある記憶を思い出すそうです。戦後まもなく、母は花火大会に行った帰りに、滑川の親せきの家に電車で向かい、曾祖母(祖母の母)を迎えに行ったのだと――。当時、富山市の花火大会は8月10日に開催されており、それが祖母の命日(8月11日)と重なっていたため、母の中では花火と祖母の記憶が強く結びついていたのでしょう。

現在、富山市の花火大会は「8月1日」に開催されています。それは富山大空襲の日でもあります。この日、夜空に大輪の花が咲くたびに、私は思います。戦争で空が赤く染まったあの日と、平和の象徴としての今の花火が、どうか二度と重なることがありませんようにと。

あの日、街を覆った煙と炎は、人々の生活、家族の思い出、未来への希望までも奪い去りました。しかし、そこから立ち上がった人々がいて、今の富山があります。

80年という年月は、長いようでいて、記憶が消えるにはあまりにも短いのかもしれません。だからこそ、語り継がれるべき物語があります。焼けた街だけでなく、命をつないだ家族のことを。助かった母、逃げのびた祖母、そして早くに亡くなった祖母の記憶を、私は大切に心にとどめ続けたいと思います。